今年3月から本格的にカメラ復帰し始め、写真・カメラ雑誌を再び購読し始めた。アサカメ、日カメはコンテスト、作品及び、カメラのテストを見るには非常にレベルが高い。CAPA、カメラマンあたりはある程度下世話な部分や、準プロ写真家を育てる背景のある雑誌。なかでも、気に入っているのがカメラマンの銀塩・デジタルに特化しない部分とPhotologueという5人の写真家によるエッセイ。
このエッセイの中に丸田祥三さんの棄景が気に入っている。今年夏ごろにちくま文庫より、「鉄道廃墟」が出版されていた。鉄道廃墟というタイトルからは、鉄道オタク+廃墟オタクという、常人の趣味から外れた、ある種の廃人・外道が想像されるかと思うが、これはそのどちらにも属さない。

鉄道廃墟 (ちくま文庫)

鉄道廃墟 (ちくま文庫)

なぜ気に入ったのかは、鉄道廃墟を読み進むうちにわかってきたよう気がする。

高度成長期、バブルを経て現在の日本は「アメリカ型 高度消費社会」となっている。消費するのは耐久消費材だけでなく、記憶・過去…それも忘れてはならないものをも消費していく。今日という日は、振り返り次への反省・次へのエネルギーとして存在するのではなく、安楽・快楽を享受し見せかけだけの幸せを得るために、得てしまったら吐き捨てるだけの為にある。

過去、我々の先人が行った過ちを今また繰り返している、これを何とかするためには「知ること」が必要だ。「棄景」、「鉄道廃墟」では戦争の記憶…僕らは直接は知らないが、親からかなりいろいろ聞いたり、昭和50年前半頃まで上野駅によくいた手や足を失った帰還兵…や、社会の不条理さを克明に書いている。先日の「棄景」にあった、「僕が子供の頃、大人は皆、戦争を否定していた。しかし現在の大人は誰一人としてそんなことは言わない。」といったフレーズがとても痛かった。

なぜ気に入ったのか。子供の頃、朝日年鑑にあった広島・長崎の原子爆弾の被害にあった方の写真や、公害病の被害にあった方の写真を見て、人が人でない形になる恐怖と「?なぜ?」という疑問があったと同時に、なぜか遣る瀬無い思いがあったように思う。この頃に感じたものと同じもの、また、これらの原因に対する「怒り」に同質のものを見出したからかもしれない。

自分は、子供の頃思い描いていた大人になれているのだろうか?